この時間になるとつい…


ついブログが書きたくなる。
RSSTIMEを見てもわかる通り、
ブログ書く時間が思いっきり偏ってますからね。
一種の発作的なものと思っていただければ…笑


分裂勘違い君劇場 - 日本のソフトウェアビジネスが今後もずっとアメリカの足下にも及ばない理由
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070226/1172462591


途中まではすごい指摘がなされてます。

日本とアメリカで異なるのは、世界の在り方を根本的に変えてしまうような芽が現れたときに、体制側に反旗を翻し、その芽を育て上げようと人々が結集する文化があるかないか、という部分です。

アメリカの場合、そういう保守オヤジ*1どもに、若者たちが革新的なソフトウェア構想で反旗を翻すと、革命軍側にパワフルな若者たちが人生を賭けて志願するし、大人たちの中からも、革命軍側につく人たちが出てくるのです。そこが、日本とアメリカの違いです。


向こうでは「面白いこと」をやれば、
お金がどんどん集まってくるような社会らしいですからね。
(昔物理の先生が言ってました。
(何かで説教されてるときw …どういう流れでそうなったんだろ?><


日本ではやっぱ、エントリ内でも触れられている通り、
新しい文化は抹殺しようとしますもんね。

そういうとき*2アメリカでは古い世界像と新しい世界像が、「対話」によって現実的な妥協点を探り出すでしょう。
一方で、日本では「対話」ではなく、
「○○○はまずいだろ、常識的に考えて。(AA略)」
となり、「空気」の力で押しつぶされます。


何故かというと、
「日本は単一民族の国だから」というふうに冒頭で説明されています。
米国はいろんな民族が共存しているから、いちいち対話が必要になる。
そのぶん、新しい文化が社会になじんでいきやすい、というわけです。
日本が「対話」という言葉を使うのは、
北朝鮮問題とかやっぱ外交になってしまいますからね。

そして、このような日本的システム*3は、「何を作るか(What)」が明確で、「どう作るか(How)」が主な問題なときは、凄まじい生産性をたたき出します。
しかし、「何を作るべきかが明確」で、「どう作るか(How)こそが問題だった」時代は過ぎ去りました。
作らなきゃならないことがはっきりしているモノやサービスは、あらかた作って、世界中を満たしてしまったからです。

こうして、日本のような「文化的同質性の高い国が有利な時代」が幕を閉じたのです。「何を作るべきか、それこそが問題だ」という時代は、既存の権威や体制での地位に背を向けて、「世界の根本原理を書き換える」ことを奨励するような文化が圧倒的に有利です。


つまり、何をやればより幸福になるのかがわからなくなった今、
日本はもう終了だということでしょう。
まあ実際にそういうことだと思いますし、
これまでにたくさんの人が指摘してきたことです。
最近の細かなネットの流行を見ても、
ネットレンタルにしろ、ブログにしろ、SNSにしろ、動画共有にしろ、
まずはアメリカで流行って、
それを日本人がカスタマイズして、って感じです。


まあその後はどうすればいいのかを延々と語ってらっしゃいますが、
どれも的外れなものばかり(と個人的に思う)。
「これらの、時代の花形分野で
自分の未来を切り開きたい若い人たちは、
さっさと日本を出て、
シリコンバレーにでも行った方がよいと思います。」という指摘は
まさにその通りだと思いますけどね。


ただ、日本人なら、アメリカの二番煎じで
ベンチャー企業の社長or従業員として、
より快適なサービスの提供に勤しむ方が向いてると思いますが。
まあ、そんなのは将来的に不安が…と
どうしても思ってしまうわけで、
個人的な結論としては「日本人やめる以外無理」ですw

*1:既得権益にしがみつく体制側のガチガチ保守オヤジども」のこと

*2:「人々の価値観の根本に抵触せざるを得ないようなイノベーションが起き」たとき

*3:「いちいち明快なロジックで対話しなくても、阿吽の呼吸で、繊細な対処がなされ」るシステム